それでいいのか?
その日は、人の文章を読みすぎていた。
伸びる書き方。
売れるテーマ。
読者を逃さない構成。
賢い人たちが、
賢い書き方をしていた。
そういう言葉ばかりが、
画面の中で妙に元気だった。
正しいのだと思う。
その言葉の周りに集まる熱で、
それは分かった。
好きなものを好きなように書いているだけの自分が、
急にひどく遅れているように見えた。
急に濃いものが食べたくなった。
分かりやすく、
煙が出ていて、
服に匂いがつくようなもの。
腹が減っていた。
駅前ではなく、
商店街の奥にある古い焼肉屋に入った。
引き戸を開けると、
熱が一枚、体に貼りついてきた。
外の夜風が、
背中で小さく折れた。
「お兄ちゃん、ホルモン食える?」
初対面の第一声が、
それだった。
食えるかどうかより先に、
その距離で来るのかと思った。
許可を取らずに人の内側へ入ってくる人だった。
店の中は、
煙というより、
誰かの一日が少し焦げた匂いで満ちていた。
店には、
働いたあと特有の顔をした人たちがいた。
作業着の袖口だけ黒い男。
首元の伸びたTシャツで、
黙ってハラミを焼いている男。
ネクタイをゆるめたまま、
ビールだけを先に空けている男。
誰も、
きれいな一日を終えてここに来た顔ではなかった。
店内では、
笑い声と脂のはぜる音と大将の声が、
同じ煙の中で混ざっていた。
「初めて来た顔してるな」
大将は、
皿を置きながら言った。
「初めて来た顔ってなんですか」
「目がまだ信用してねぇ」
「こっちはまだ野良猫くらい警戒してます」
大将は笑った。
「言うねぇ」
「最初はこれな」
そう言って、
大将は七輪を置いた。
炭の赤は、
怒っているようにも、
黙って働いているようにも見えた。
その上に、
ホルモンが乗る。
白い脂が、
すぐにじわっと溶け始めた。
じゅ、と音がした。
肉が焼ける匂いは、
言葉より先に信用を取りにくる。
その時、
奥の席から声がした。
「兄ちゃん、珍しいな」
振り返ると、
赤い顔をした常連が、
焼酎のグラスを持ってこちらを見ていた。
「気に入られてるぞ」
「これでですか」
「うん。普通はもっと雑にされる」
十分雑だった。
なぜか常連まで、
少し嬉しそうだった。
大将は、
その会話を聞いていたのかいないのか、
網の上のホルモンを雑に転がした。
「お兄ちゃん、仕事何してんの」
「文章を書いたりしてます」
「じゃあ売れねぇな」
普通にムカついた。
「初対面で言います?」
「売れるやつは、
目がもっといやらしいんだよ」
「どういう偏見ですか」
「偏見じゃねぇよ。経験だよ」
大将の笑顔には、
謝る気のない人間の明るさがあった。
大将は、
僕のビールを自分のグラスに注ぎながら、
聞いてもいないのに自分の話をした。
「嫁と娘は十年前に逃げてった。
理由は聞くなよ。俺も聞けてねぇから」
「聞けてないんですか」
「聞く前にいなくなった」
「そういうところです」
大将は、
子供みたいに嬉しそうに笑った。
「だろ?」
反省する気は、
あまりなさそうだった。
「でもな」
大将は、
ホルモンを裏返した。
「この味噌ダレは残った」
大将が指した先には、
年季の入った味噌ダレの壺があった。
表面は少し乾いていて、
縁のあたりに、
何年分かの色が沈んでいた。
きれいではない。
でも、
新しいものには出せない顔をしていた。
大将の話には、
湿っぽくなる直前に、
必ず肉を裏返す音が入った。
じゅ、と鳴る。
そのたびに、
話の重さが少しだけ煙になる。
焼けたホルモンを食べる。
驚くほどうまかった。
噛んだ瞬間、
会話を続ける気が少し消えた。
なんだこれ。
少し黙った。
少し腹が立つくらいうまかった。
初対面であれだけ距離を詰めてきた人間に、
こんなにうまいものを出されると、
こちらの立場がなくなる。
脂が甘いとか、
味噌が濃いとか、
そういうことは言える。
言えるけれど、
それだけでは足りない。
きれいに整った味ではなかった。
誰にでも好かれるように、
角を丸めた味ではなかった。
少し強い。
少し雑。
少し逃げ場がない。
でも、
一口食べただけで、
この人が出している味だと分かった。
「なんでこの味にしたんですか」
俺から聞いた。
よくぞ聞いてくれたみたいな顔をした。
「好きだからだよ」
「それだけですか」
「それだけだよ」
大将は、
網の上のホルモンを見た。
「流行るとか、儲かるとか、
そういうのは知らねぇよ。」
「この味が好きなんだよ。」
心の奥の暗いところに、
水滴がひとつ落ちたような気がした。
奥の席に、
静かな客がいた。
年齢はよく分からない。
煙の向こうで、
店の一部みたいに座っていた。
大将が話しかけるたびに、
一応うなずく。
でも、
目はずっと網の上を見ている。
放っておいてほしい人の顔をしていた。
「お前、それ好きだな」
「まあ」
会話と呼んでいいのか分からない。
大将だけが投げて、
客はほとんど受け取っていないように見えた。
正直、
少し迷惑そうだと思った。
俺は軽く言った。
「あの人、静かに飲みたそうでしたね」
大将は、
ホルモンをナイフとフォークで食べられたみたいな顔をした。
「誰が?」
「奥の人です」
「あいつ?」
大将は笑った。
「もう三十回以上来てるぞ」
思っていた迷惑と、
現実の回数が合わなかった。
その常連と目が合った。
「よく来てるんですか」
そう聞くと、
常連は少しだけグラスを見た。
「ああ」
それから、
網の上の肉を見て言った。
「この人にしか出せない味があるからね」
そう言ってから、
常連は少しだけ笑った。
「まあ、うるさいけどね」
茶化しているのに、
その笑い方が、
どこか大将に似ていた。
スマホを開く。
帰りの電車で直そうと思っていた下書きが、
画面に残っていた。
みんなが欲しいと思った情報が書いてある。
分かりやすくするために、
差し込んだ図解がある。
邪魔にならないようにと、
消した自分の癖がある。
消した文だけが、
なぜかずっと頭に残っていた。
会計を済ませると、
大将は最後に俺の顔を見た。
「お兄ちゃん、なんか元気ねぇな」
「いや、大丈夫です」
「大丈夫じゃないやつは、
だいたい大丈夫って言うんだよ」
それはそうかもしれない。
「相談してみろよ」
「いや、いいです」
「一発で解決してやるよ」
「絶対無理でしょ」
大将は笑った。
「いいから、目つぶりな」
ふざけているのかと思った。
でも、
なぜか断れなかった。
目を閉じた。
店の輪郭が消えて、
音だけが残った。
換気扇。
遠くの笑い声。
皿を置く音。
さっき食べた味噌ダレの甘さが、
舌の奥に残っていた。
売れる味。
流行る味。
説明できる味。
嫌われない味。
そういうものが、
頭の中を順番に通り過ぎていった。
しばらくして、
大将の声だけが聞こえた。
「胸に手ぇ当てろ」
胸に手を当てた。
「それでいいのか?」





なんだか、最後思わず自分も胸に手を当てながら読んだ…
大将が、声をかけてくれてる空気に自然とひきずりこまれてました。
うん、素敵。大将。
私はそこまで突き抜けられないなぁ~
大将は、きっと、「嫌われる勇気」て背中にドーンと書いてある黒色のTシャツを着ているに違いないwww