いつもの、一世一代の大勝負
賭けというものは、
負けた時に初めて、
自分が何を差し出していたのか分かる。
隣の席の男が、
水を置かれる前に言った。
「いつもの」
僕は、
おしぼりを持つ手を少し止めた。
出た。
常連の「いつもの」。
恋人の「なんでもいい」。
美容師への「いい感じで」。
この三つは、
令和三大難解注文として、
そろそろ国が規制を入れた方がいい。
どれも言っている本人は軽い。
軽い顔をして、
相手にかなり高度な読解を求めている。
「いつもの」は、
店に記憶力を求めている。
「なんでもいい」は、
恋人に機嫌と空腹と予算と過去の失敗例を同時に読ませている。
「いい感じで」は、
美容師に顔面、骨格、流行、元恋人への未練まで含めた総合判断を要求している。
どれも短い。
短いくせに、
受け取る側の負担が重すぎる。
中でも「いつもの」は、
特にたちが悪い。
「なんでもいい」は、
まだ相手に選ばせるだけだ。
「いい感じで」も、
一応、美容師という専門家に委ねている。
でも「いつもの」は違う。
こちらは、
相手が自分を覚えている前提で話している。
ほとんど信仰だ。
信仰とは、
裏切られるまで信仰である。
たぶん、
キルケゴールか何かが言っていた。
そして、
信仰が裏切られた時、
人はだいたい無言になる。
もし違うものが出てきたら、
訂正するのも難しい。
「それじゃないです」
とは言いづらい。
なぜなら、
こちらは最初から何も言っていないからだ。
量も、
味も、
皿の数も、
こちらは何ひとつ指定していない。
ただ、
いつもの、と言っただけだ。
それで違うものが来た場合、
裁かれるべきは店なのか、
自分の常連力なのか、
かなり判断が難しい。
しばらくして、
男の前にレバニラ炒めが置かれた。
レバニラ炒め。
七文字。
いつもの。
四文字。
節約できたのは、
たった三文字である。
金融商品として見た場合、
かなりハイリスク・ローリターンだと思う。
三文字しか得していないのに、
失敗した場合、
常連としての自己認識が一括で差し押さえられる。
こんな取引を、
何食わぬ顔で毎昼やっている常連がいる。
町中華とは、
思っているより資本主義の最前線なのかもしれない。
でも、それでも人は言いたい。
いつもの。
僕はこの店に、
まだ三回しか来ていない。
一回目も二回目も、
野菜炒め、
ライス大盛り、
単品唐揚げ二個。
そこに、
マヨネーズまでつけた。
注文としては、
かなり人格が出ている。
でも、
覚えられているわけがない。
女将さんと話したのは、
会計の時くらいだった。
「ごちそうさまでした」
「はい、どうも」
ほとんど人類共通の会話である。
そもそも僕は、
人に覚えられるタイプの人間ではない。
学生時代、
クラスの中心にいたこともない。
生徒会長になったこともない。
卒業アルバムで、
後ろの方に写っていても、
「ああ、いたね」と言われる側の人間だった。
「ご注文は?」
女将さんに聞かれた。
本当なら、
野菜炒めとライス大盛り、
単品唐揚げ二個、マヨネーズ別皿で、
と言えばいい。
八割くらい言いかけた。
でも、
隣のレバニラ炒めの男が、
あまりにも涼しい顔で信仰を成立させていた。
僕も、
一度だけあの向こう側へ行ってみたくなった。
深呼吸をする。
「いつもの」
女将さんの表情が、
ほんの一瞬だけ止まった。
たぶん、
一秒もなかった。
いや、
0.1秒くらいだったと思う。
でも、
僕は見逃さなかった。
あの0.1秒に、
何が入っていたのだろう。
記憶か。
戸惑いか。
それとも、
「お前、まだ三回目だろ」という静かな怒りか。
女将さんは、
どちらともつかない顔で厨房へ戻っていった。
安全バーが、
心の中で静かに下りた。
一世一代の大勝負が、
静かに始まった。
その瞬間、
椅子が少し上がった気がした。
遊園地のジェットコースターが、
最初の坂をカタカタ上っていく時のあれだ。
まだ落ちていない。
でも、
もう降りられない。
厨房から中華鍋の音がした。
カン。
僕の心臓も、
一緒に鳴った。
違うものが来たらどうする。
ラーメンとか、
チャーハンだったらまだいい。
でも、
もし餃子定食Wが来たら、
僕はこれから一生、
餃子定食Wを食べ続けなければならない。
厨房で、
中華鍋が鳴った。
あれは僕の注文なのか。
それとも、
隣のレバニラ炒めの追撃なのか。
分からない。
油のはぜる音がする。
何かが炒められている。
炒め物だ。
希望がある。
同時に、
候補が多すぎる。
と思った瞬間、
女将さんが冷蔵庫を開けた。
白い皿の上に、
餃子が並んでいるような気がした。
いや、
並んでいたかどうかも分からない。
人は不安になると、
見えていない餃子まで見る。
あれは僕の餃子なのか。
僕は今、
餃子定食Wへ向かっているのか。
情報が多いのに、
何ひとつ確定しない。
ミステリーなら、
かなり嫌な中盤である。
女将さんが、
棚の上の皿を取った。
大きい。
いや、
この店の皿はだいたい大きい。
判断材料にならない。
ライスの蓋が開く音がした。
大盛りか。
普通盛りか。
音だけでは分からない。
僕は水を飲んだ。
喉が渇いていた。
信仰とは、
喉が渇くものなのかもしれない。
「はい、お待ちどうさま」
しばらくして、
皿が置かれた。
野菜炒め。
ライス大盛り。
単品唐揚げ二個。
僕は、
少しだけ女将さんを見た。
あっけに取られた。
この人は、
何者なんだろう。
マヨネーズは、
ついてこなかった。
でも、
それくらいでよかった。
覚えているところと、
忘れているところの隙間に、
人間の愛嬌があった。
野菜炒めを食べた。
唐揚げをひとつ食べた。
なぜか、
前に食べた時より美味しかった。
同じもののはずなのに。
いや、
同じものだからかもしれない。
その皿には、料理とは別に、
「あなたのことを見てましたよ」
が、
少しだけ別皿で添えられている。
その別皿ひとつで、
僕は世界に一人じゃないと思うことができる。
会計を済ませると、
女将さんが飴玉をひとつくれた。
昔からある、
透明な包み紙のやつだった。
店を出る。
夜の空が、
いつもより少し明るく見えた。
満月って、
こんなに大きかったっけ。
飴玉を口に入れる。
久しぶりに、
甘酸っぱい味がした。
今日は、
いつものより美味しかった。
いつものなのに。
理由は多分、
三文字では説明できない。





「いつものやつ頼むわ」って
電話で注文してくるおじーちゃんがいます。
会社です。
零細企業ですが、ウチの会社は商社になるのかな。
名乗らないけど「ワシやワシ」で誰だかわかります。🤣
認知されてることの喜びとか、居場所があったことの安心感とか、なんか色んなことを感じられました🫧
「いつもの」って言えるお店作りテェ🍳